愛のコリーダ (1976)

By | 2020年12月25日

完全にナメていました。昨夜、初めて鑑賞してみて、今度こそ言葉が出てきませんでした。

愛の嵐 (1974) では、言葉が出てきませんと言いながら、直後にダラダラと文章を綴って

ますものね。今度こそ、正真正銘、言葉にすることが不可能だったので、今日になって

感想を書いてます。こんなことなら、イブだったのですから、戦場のメリークリスマスに

しておけば良かったと心底思いましたよ。

藤竜也のペニスは立派なモノではありません。しかし、非常に美しい形をしています。

特に亀頭部分は、張り形のモデルにしたいくらいです。殿山泰司のポコチンは、たいしたこと

ありません。松田暎子の顔は、今回、映画を観るまで知りませんでした。いつも、お世話に

なっている歯科衛生士さんに、よく似ています……というふうなことしか、昨夜は頭に浮かばず、

こりゃ、記事にならないなって思ったのです。

見比べたわけではないので、確信を持って言えることではないのですが、日本での公開版を

観たからといっても、今、頭の中で渦巻いているモヤモヤは、浮かんでこなかったように

感じます。無修正版であるからこそ、繰り返し繰り返し藤竜也のペニスが写し出されることに

よって慣れてきます。映画のかなりの部分で、藤竜也と松田暎子は、つながりっぱなしなので

これも、慣れてきます。修正版だったら逆に妄想をかきたてるかも知れません。

コロナ禍で、街で見かける女性のほとんどが、マスクをしています。そのせいで、街中が

美人やカワイコちゃんだらけに見えます。見えない部分を理想的に美化してしまうからでしょう。

(逆もあることがわかりました。とびきりの美人の奥さんがマスクをしていることに

よって、平均的なきれいな奥さんにしか見えないってこともあるんですね。想像力で

補える口元を超える美しさを持ってらっしゃるということなんでしょうか。このことを

実証できるのは2~3年先になると思われます。年に1度くらいのペースでしか

お目にかかれないんですよ)

阿部定の生涯についての情報をネットで拾って読んでみたら、時代的な背景が違うとはいえ、

比較的裕福な家庭に生まれながら、いくつかの要素が悲劇的に組み合わさって初潮前に

二人の大学生にレイプされたことが悲劇的な人生を送ることになるターニングポイントに

なったような気がします。教員によるわいせつ行為や家庭内で性的虐待を児童期に受けた

経験を持つ女性の多くが心理的な後遺症に苦しみ、愛情のないセックスを重ねたり、

性産業の担い手になっていったりすることがあるというのは、現代においても

重大な人権侵害がきっかけになるという事実と重なります。そういった意味で、

映画の中で阿部定が全裸の幼児(男の子と女の子)二人を遊ばせていて、幼児達は

キャッキャッと走り回っていたのですが、そのうち、定が男の子のおちんちんを

つかんで捕まえて、男の子は「痛い、痛い」と嫌がるし女の子はそれを見て

固まってしまうというシーンがあるのですが、それは、ラストへの伏線なのか、

それとも、受け入れがたい過去を上書き消去しようとしたのか、その解釈によっては

局所を切り取るという行為の意味が違ってくると思いました。

一方、石田吉蔵は、なぜ被害者となってしまったのか。彼の性的嗜好が引き起こして

しまった事故なのか、それとも、それに付き合っているうちに定に瞬間的殺意が

生じてしまったのか、あるいは、その両方で、もし死んじまってもいいかあ、

もし殺してしまってもいいかあ、という両者の思いが見事にシンクロした結果なのか

解くことができない謎として未来永劫残ることでしょう。でも、この部分って

愛の嵐の二人にも共通するみたいだし、死にはしないけど、河井克行・案里夫妻に

だって通じることかも知れません。

なぜ、大島渚は、この映画を撮ったんでしょうねえ。日本では、そのままでは

公開できない映画を撮ることで、世界に向かって日本を内部告発したのではないか。

しかし、日本だけではなく世界中に無修正のままでは上映できない国がたくさん

あります。露骨な性表現だけではなく、全裸の幼児のシーンに限ると、少なくとも

オーストラリア、ベルギー、フランス、南アフリカ、そして米国では上映できない

でしょうね。しかし、当時であれば、このシーンは問題なく日本では上映できたはず。

ある業界、ある会社内では常識であっても、社会では非常識とされる事案には

今も事欠かないと思われますが、それをいくら社内で訴えても無視されるだけではなく

非常識であるとされてしまい、訴えた本人が不利益を受けてしまいます。

大島渚も裁判闘争に巻き込まれながらも「猥褻が何故悪いのか?」と主張し、勝利を

勝ち取っています。 しかし、一歩も引くことなく戦って有罪判決が確定するほうが

大島渚にとっては、勝利だったのではないかと思います。日本の非常識を世界に

向かって証明できるわけですから。欲を言えば、もう2本か3本、大島渚に

ハードコアを撮ってもらって、さらに上を目指して欲しかった。裁判は、それを

結果として抑制してしまったのかも知れません。

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