先ほど、見終えました。
言葉が出てきません。22歳の時に見た記憶は、いくつかの強烈な
シーンを除けば消滅してしまってました。映画は、過酷な体験した
男女が、どんな結末に至るかいう解答ではありません。映画の中の
出来事をサドマゾヒズムだのストックホルム症候群だのといった
単語に置き換えてしまっては、ますます理解から遠ざかります。
ホロコーストという単語でさえ、この映画では歴史的知識の
ひとつとして観客が知っていることを前提にしていません。
今回、46年ぶりに鑑賞してみて、はっきりとわかったことが
あります。22歳の私が、この映画が語っていることを理解できる
はずがないということ。68歳になった私にも受け入れることは
できても、理解しようとすればするほど理解から遠ざかってしまうことを
非常にかすかに感じられる程度ですから。
映画を観るということは、自分自身の人生の中でこれまでも
これからも経験し得ない出来事を目の当たりにするという面があると
思うのですが、これまで観た映画の中にも今後観る映画の中にも
愛の嵐で起きたことを観ることはないだろうなあと強く感じました。
何かを知るため、何かを感じるため、何かを理解するために映画は
観るものなら、運悪く絶望に遭遇したとき、この映画のラストシーンを
思い浮かべることができれば、ささやかな鎮痛剤になり得るという
このなのでしょう。