Monthly Archives: 12月 2020

Dogtooth(籠の中の乙女=邦題) (2009)

始まって5分と経たずに、これは、やっかいな映画だぞと身構えて

しまいました。そのまま、緊張した状態で観ていると、あの姉妹の

ダンスシーンに至り、身が凍ったのですが、もし、この映画を劇場で

観ていたら、周囲の観客のかなりの割合を占める人たちが笑い出して

しまって、私は抱えてしまった恐怖心を持て余したことでしょう。

こういう難解な映画について語るとき、戒むべきは、ちりとてちんを

語る竹にならないことでしょうね。鑑賞後、最初に連想したのは

北朝鮮の体制であり、もし、裕福な全体主義国家が存在し、しかも、

その理念が独善的ではあっても国民の安全なり幸福にあったなら……

さすがに、その設定は無理がありますね。北九州監禁殺人事件や

尼崎事件のような支配洗脳事件も動機は欲であり、最初は手段であった

支配力が目的化し、やがて自らを全能の神と勘違いさせるまでに

肥大化して破綻するという経過をたどります。これらも、この映画が

描く支配とは異質なものです。少なくとも方向性が違います。

この映画の支配者である父親は、ほころびを繕うために架空の誰かに

襲われたフリをしたり、プールに魚を放したり(実は、魚の件に

ついては、ハッキリとは理解できてません。私の英語力では無理)

涙ぐましい努力をしています。一方で工場の守衛の女や娘を叱責する

手段としての暴力の行使に躊躇はありません。

だから、直感的に北朝鮮体制を思い浮かべてしまったのは失敗で、

親が思い違いをして何らかの失敗をしたのに、その失敗の本当の

意味に気づくことができなかったため、その子供や孫にまで悪影響を

及ぼしてしまうという、日本全国、どこにでもあるような家庭で

起こっているような支配。ありふれているけれど、そのぶん、

解決が困難で深刻な支配。それは、学校や職場、地域社会に

存在するイジメなどと同根のもので、実は社会を構成する要素であって

万一、支配というものがなくなったら社会という仕組み自体が

崩壊するし、元々、人が二人いれば社会の最小単位となるなら

人類が存続できないということなのでしょう。
 

この監督の別作品も観たいかというと、ごめんこうむりたいと

今は正直、思ってます。

ハヤカワ文庫 レッド・スパロー〈上〉〈下〉

期待を超えることはありませんでした。スパイ小説というくくりで言うと

中の下くらいにランクされるかも知れません。作者の実体験と、 FBI と

CIA 長官が、大っ嫌いという感情が邪魔をしてしまったかも知れません。

特に終わり1/4あたりの拡げた風呂敷をたたむところで、いくつか

ツッコミどころがあって、苦笑してしまいます。そのあたりを拾って

映画の脚本にしていたら、「いつもの」ハリウッド映画になってしまって

いたところでした。しかし、この小説の光る部分を見つけて研磨し、

カットして、きちんと第一級の映画に仕立て上げたスタッフ達がスゴイなと

改めて思いました。

著者のジェイソン・マシューズが、この作品を発表したのは、2013 年ですが

物語の背景となっているのは、おそらく、2003 年前後かなと思います。

米上院議員が、ロシア側のスパイであることの容疑を決定的にする小道具として

MOが使われるのですが、その容量が 1.3 GB だったことから、だいたい、

そのあたりかなと。記憶媒体としての MO の存在期間って、とても短いので

これを使っちゃうと時期が特定できてしまうんですね。しかも、USB メモリも

登場しますから、少なくとも、2000 年以降となりますか。ところで、映画にも

(たぶん)MO が登場(まさか、フロッピーディスクじゃないだろう)しますが

同時に、スマホや、SNS も登場するので、このあたりはツッコミどころかも

知れません。ただし、14年間も尻尾をつかまれることなく過ごしてきた

老練のエージェントが、20枚のうちの1枚の MO を自ら盗むというのは

いくら何でも、「おかしいだろう!」と叫ばずにはいられません。こういう

アメリカ人的いいかげんさが、物語の終わり1/4あたりに集中して発揮される

ため、この小説を推しがたいものにしてるんですよね。

とはいえ、映画で端折っているものが何なのかを明らかにさせる資料としては、

貴重でしたし、ドミニカのお母さんがバイオリンを娘に聞かせながら、

「何が何でも生きるのよ」と語るシーンなど、原作を読んで得したなという

部分も多くありました。このシーンだけは、映画でも使ってもらえていたらなと

思いましたもん。各章末に料理レシピを掲載するという著者の小さな親切は、

ハッキリ言って、Microsoft  的な大きなお世話でした。

愛のコリーダ (1976)

完全にナメていました。昨夜、初めて鑑賞してみて、今度こそ言葉が出てきませんでした。

愛の嵐 (1974) では、言葉が出てきませんと言いながら、直後にダラダラと文章を綴って

ますものね。今度こそ、正真正銘、言葉にすることが不可能だったので、今日になって

感想を書いてます。こんなことなら、イブだったのですから、戦場のメリークリスマスに

しておけば良かったと心底思いましたよ。

藤竜也のペニスは立派なモノではありません。しかし、非常に美しい形をしています。

特に亀頭部分は、張り形のモデルにしたいくらいです。殿山泰司のポコチンは、たいしたこと

ありません。松田暎子の顔は、今回、映画を観るまで知りませんでした。いつも、お世話に

なっている歯科衛生士さんに、よく似ています……というふうなことしか、昨夜は頭に浮かばず、

こりゃ、記事にならないなって思ったのです。

見比べたわけではないので、確信を持って言えることではないのですが、日本での公開版を

観たからといっても、今、頭の中で渦巻いているモヤモヤは、浮かんでこなかったように

感じます。無修正版であるからこそ、繰り返し繰り返し藤竜也のペニスが写し出されることに

よって慣れてきます。映画のかなりの部分で、藤竜也と松田暎子は、つながりっぱなしなので

これも、慣れてきます。修正版だったら逆に妄想をかきたてるかも知れません。

コロナ禍で、街で見かける女性のほとんどが、マスクをしています。そのせいで、街中が

美人やカワイコちゃんだらけに見えます。見えない部分を理想的に美化してしまうからでしょう。

(逆もあることがわかりました。とびきりの美人の奥さんがマスクをしていることに

よって、平均的なきれいな奥さんにしか見えないってこともあるんですね。想像力で

補える口元を超える美しさを持ってらっしゃるということなんでしょうか。このことを

実証できるのは2~3年先になると思われます。年に1度くらいのペースでしか

お目にかかれないんですよ)

阿部定の生涯についての情報をネットで拾って読んでみたら、時代的な背景が違うとはいえ、

比較的裕福な家庭に生まれながら、いくつかの要素が悲劇的に組み合わさって初潮前に

二人の大学生にレイプされたことが悲劇的な人生を送ることになるターニングポイントに

なったような気がします。教員によるわいせつ行為や家庭内で性的虐待を児童期に受けた

経験を持つ女性の多くが心理的な後遺症に苦しみ、愛情のないセックスを重ねたり、

性産業の担い手になっていったりすることがあるというのは、現代においても

重大な人権侵害がきっかけになるという事実と重なります。そういった意味で、

映画の中で阿部定が全裸の幼児(男の子と女の子)二人を遊ばせていて、幼児達は

キャッキャッと走り回っていたのですが、そのうち、定が男の子のおちんちんを

つかんで捕まえて、男の子は「痛い、痛い」と嫌がるし女の子はそれを見て

固まってしまうというシーンがあるのですが、それは、ラストへの伏線なのか、

それとも、受け入れがたい過去を上書き消去しようとしたのか、その解釈によっては

局所を切り取るという行為の意味が違ってくると思いました。

一方、石田吉蔵は、なぜ被害者となってしまったのか。彼の性的嗜好が引き起こして

しまった事故なのか、それとも、それに付き合っているうちに定に瞬間的殺意が

生じてしまったのか、あるいは、その両方で、もし死んじまってもいいかあ、

もし殺してしまってもいいかあ、という両者の思いが見事にシンクロした結果なのか

解くことができない謎として未来永劫残ることでしょう。でも、この部分って

愛の嵐の二人にも共通するみたいだし、死にはしないけど、河井克行・案里夫妻に

だって通じることかも知れません。

なぜ、大島渚は、この映画を撮ったんでしょうねえ。日本では、そのままでは

公開できない映画を撮ることで、世界に向かって日本を内部告発したのではないか。

しかし、日本だけではなく世界中に無修正のままでは上映できない国がたくさん

あります。露骨な性表現だけではなく、全裸の幼児のシーンに限ると、少なくとも

オーストラリア、ベルギー、フランス、南アフリカ、そして米国では上映できない

でしょうね。しかし、当時であれば、このシーンは問題なく日本では上映できたはず。

ある業界、ある会社内では常識であっても、社会では非常識とされる事案には

今も事欠かないと思われますが、それをいくら社内で訴えても無視されるだけではなく

非常識であるとされてしまい、訴えた本人が不利益を受けてしまいます。

大島渚も裁判闘争に巻き込まれながらも「猥褻が何故悪いのか?」と主張し、勝利を

勝ち取っています。 しかし、一歩も引くことなく戦って有罪判決が確定するほうが

大島渚にとっては、勝利だったのではないかと思います。日本の非常識を世界に

向かって証明できるわけですから。欲を言えば、もう2本か3本、大島渚に

ハードコアを撮ってもらって、さらに上を目指して欲しかった。裁判は、それを

結果として抑制してしまったのかも知れません。

愛の嵐 (1974)

先ほど、見終えました。

言葉が出てきません。22歳の時に見た記憶は、いくつかの強烈な

シーンを除けば消滅してしまってました。映画は、過酷な体験した

男女が、どんな結末に至るかいう解答ではありません。映画の中の

出来事をサドマゾヒズムだのストックホルム症候群だのといった

単語に置き換えてしまっては、ますます理解から遠ざかります。

ホロコーストという単語でさえ、この映画では歴史的知識の

ひとつとして観客が知っていることを前提にしていません。

今回、46年ぶりに鑑賞してみて、はっきりとわかったことが

あります。22歳の私が、この映画が語っていることを理解できる

はずがないということ。68歳になった私にも受け入れることは

できても、理解しようとすればするほど理解から遠ざかってしまうことを

非常にかすかに感じられる程度ですから。

映画を観るということは、自分自身の人生の中でこれまでも

これからも経験し得ない出来事を目の当たりにするという面があると

思うのですが、これまで観た映画の中にも今後観る映画の中にも

愛の嵐で起きたことを観ることはないだろうなあと強く感じました。

何かを知るため、何かを感じるため、何かを理解するために映画は

観るものなら、運悪く絶望に遭遇したとき、この映画のラストシーンを

思い浮かべることができれば、ささやかな鎮痛剤になり得るという

このなのでしょう。

Red Sparrow (2018)

これほどの映画を見逃したままだったとは……

映画好きを返上しなければならないところですよね。

まだ、これほどの映画を作る力がハリウッドにあったとは驚きです。

原作が、しっかりしているのであろうことは、間違いない

ところでしょうけど、文庫本2冊分の内容を に収めなければ

なりません。それだけでも大変ですが、実際に映像化するためには、

誰に脚本を書いてもらって、監督を誰にするのか、出演者は?予算は?

ロケ地は?すべてのことを決めるために気の遠くなるほどの交渉を

重ねて、やっと撮影が始まります。多くの人間が関われば、いろんな

主張が飛び交い、病気や怪我をする人もいるだろうし、いやいや、

出資者との交渉が何と言っても一番大変ぽいし、ロケ地でも、

撮影所でも、ありとあらゆるアクシデントが起きるだろうし、いやいや、

映画が完成し配給され、世界中の観客に届いて初めて、そういうすべてを

調整できたということが、証明されるんでしょうね。

その役割をする人のことをユニット・プロダクション・マネージャーって

言うんですってね。初めて知りました。この映画の場合は二人いるんですが、

筆頭 Unit Production Manager に、Mika Saito という方の名前が

エンドロールにありました。齊藤美香さんなのか、斎藤美香さんなのか

字もわかりませんし、仔犬ダンの物語 (2002) に出演した斎藤美香さんと

同一人物なのか、単に同じ名前だけなのか、まったくわかりませんが、

すくなくとも、日系と思われる名前の方が重要な役割をして、この映画が

できたんだということはわかります。また、第二助監督として、

Takahide Kawakami さんという方の名前も流れました。

私は、英語版で、この映画を観ました。音声は英語もあったのですが、

字幕は、チェコ語しか選択できなかったので字幕なしで観ました。

私の英語力はピーク時には平均的な中学校3年生くらいはあったかも

知れませんが、現在は、中学校1年生にも負ける程度です。しかも、

当時の教育ですからヒアリングの能力ときたら、ほぼゼロです。

でも、物語の流れは理解できたと思います。二転三転、敵か味方か、

誰が、どちら側なのか二重スパイなのか、とにかく、5分後が

わからないくらい急展開の連続なのに……です。

良い映画の条件として、言葉がわからなくても、ちゃんと感動できる

映画であることは、最重要に近い条件だと思っています。

ただし、逆はありません。逆も真なら、ほとんどのポルノは良い映画って

ことになってしまいます。複雑な内容でも、台詞に頼らず伝える力が

あるかどうかってことですね。言葉で感動させようというのなら、

小説にすればいいのです。映画にしたからには、映像と出演者の演技で

八割以上を伝えることができなければならないと考えています。少なくとも、

私は、それを要求するし、きちんと応えてくれた映画には惜しみなく賛辞を

送ります。とはいっても、ディティールは、わかりません。そこで、原作本を

ポチりました。Amazon では、上下2冊の最安値が送料込み 700 円だったので

初挑戦でメルカリの 500 円にしました。

おまけですが、シャーロット・ランプリングを久々に拝見できたのも、

この映画のうれしいところでした。愛の嵐を原語版で、もう一度観ようと

思っています。当時、私は22歳くらいでした。劇中の歌も気に入ってレコードも

買いました。46年経つと、どういう感想を抱くのか楽しみです。

(DIY) 女房の敵討ち

2階のドアの開閉がキツくて、特に開けるとき向こうから誰か

引っ張ってるのか?というくらいキツいのです。以前、この件は

女房から指摘されて診断した事はあるのですが、KURE 5-56 で

直っちゃうレベルではないだけじゃなく、柱か戸か、あるいは両方を

加工するか、もしくは、金具(三角締りという名称のようです)を

交換するといった一つ上のレベルを要求されるものでした。

これが、ドアと柱の隙間が大きくなって、軽く開き過ぎるという

不具合なら、受け金具と柱の間に隙間調整のステーを入れればいいので

割と容易に直せちゃうんです。うまく行かなければ、ステーの厚みを

変えればいいだけで、ステーを木で作れば何度でも作り直せます。

で、物置のドアで実際にやってみたことがあるんですけど頭で考えるのと

違って、隙間調整って、とても繊細で微妙なものだということを

知りました。何とか実用レベルには調整できたのですが、あまり、

満足していません。だから、広すぎる隙間を埋めるよりも難易度が

高い隙間を拡げるほうには、二の足を踏んでしまっていたのです。

ところが、昨日、女房がドアを開けようとして筋を痛めてしまって

今日になっても、何かの拍子に小指に繋がる筋が強く痛むようで

何度も声をあげます。親指以外の4本の指を引っかけてドアを引いて

開けたときに、上の2本の指が外れて小指に大きな力がかかったようです。

↑↑↑ を調整するわけですが、工作するには柱側のほうが圧倒的に

ラクです。

まさかのマイナス木ネジ。そういえば、プラスネジに変わる順番としては

建築の世界は、最後尾に近かったような記憶はあります。

42年の歳月が、これ以上ないくらい小さな小さな琥珀の卵を産んでました。

彫ったのは、↑↑↑ くらいです。使ったのは、ノミだけです。

↑↑↑ が木屑のすべてです。測りようがないのですが、おそらく感覚的に

厚み調整としては、0.5 mm 程度ではなかったかと思います。それも、

一律に 0.5 mm じゃなくて、上辺が0.7 mm 、下辺が 0.3 mm と傾斜した

形で彫ったと思います。もうちょっと、下辺側も彫らなきゃなんないかな?

というタイミングで受け具をはめて開閉を試してみたら調子よかったので

完成ということにしておこうという感じです。

この写真を見て気づきましたが、上下で違う木ネジを使ってますね。

上側が深くて下側が浅いってことが、わかりますか?

(DIY) 台所の蛍光灯をガレージへ

ジンちゃんをギリギリまで前進させて

作業のための脚立を置くスペースを作りました。

2F作業場で例の物差し作り。

台所の蛍光灯の取り付け穴の位置めがけてドリルで物差しに穴を開けて

それぞれの穴を拡げて物差し完成。

2回目なので、ここまでの工程はスイスイ運びますね。物差しを天井に

貼り付けて下穴を開けます。上下左右裏表勘違えないように、マジックで

印をつけてます。ところで、この下穴開けの途中で石膏ボードの奥に

木があることがわかったんです。 ボードアンカー を埋める必要が

なくなって、直接、木ネジで留めればいいということになったのですが、

ネジの長さはどうすればいいのか何の情報もありません。つまり、

どのくらいの幅で、どのくらいの厚みがある木材なのか、その木材の

端から何ミリのところにネジ止めできるのか、木材の底と石膏ボードの

表面との距離さえわからないという状況で、えいやっ!と、38mm の

ネジにしました。理由は、そこにあったから。3ヶ所留めるので何とか

なるでしょうか。

直付けなので簡単に(一方の手でドライバー持って、もう一方の手だけで

器具を支えるのは困難なので頭でも支えました)固定できました。

点灯テストOK!


おまけ:ガレージから取り外した蛍光灯の安定器には、PCB が使用されて
    いないってことは、型番、品番から確認できてます。

(映画) 駄作3本

Lovemachine (2016)

 第38回モスクワ国際映画祭に正式に出品されたというこの作品。

 「 ロシア映画史上類を見ないという過激な演出」というキャッチフレーズに

 おびき寄せられて見てしまったとしたら、たぶん、がっかりすると思います。

 勃起した男性器とフェラシーンの「 過激な描写」は、たっぷりとありますが、

 前半は、思わせぶりなそーいうシーンの羅列で後半は、しょーもないストーリーの

 三角関係というか何というか……つまんないです。

Sweet Country (1987)

 もし、↑↑↑ のような、この映画のスチール写真におびき寄せられて見てしまったら、

 おそらく失望します。1973年9月11日のチリの軍事クーデターを描いた映画だと

 思って見てしまえば、もっと深い失望を味わいます。その失望は、映画のラスト部分で

 絶望に変わり、無駄な時間を過ごしてしまった後悔だけが残ります。

Trauma (2017)

 私は、Amazon のワンクリック詐欺に引っかかり、知らぬ間にプライム会員なったことに

 気づいて解約し、返金もさせたのですが、そのときに、プライムビデオの一覧を見ていて

 唯一、興味を持ったのが、↑↑↑ のポスター。原題は Trauma です。

 映画は、冒頭、Sweet Country と同じくピノチェット軍事政権時代の1978年に

 始まります。駄作と言いながら、この部分は良くできています。ただし、私は

 グロは嫌いだし、拷問シーンも嫌いなので楽しめなかっただけです。ところが、

 舞台が、2011年に変わった瞬間から、ソフトコアポルノになり、ホラー映画になり、

 荒唐無稽なストーリー展開が待っていました。でも、人体破壊のシーンは見事でした。

 私は好きではありませんけど。もうひとつ、救われるのが、姉妹のいとこ役を

 演じた Dominga Bofill は、魅力的な女優さんでした。

 だからというわけじゃないですけど、上の2作の救いようがない駄作ぶりとは

 何か違う物を感じさせるところがあるんですよね。見応えのある 1978年を

 撮った監督と、残虐シーンは別として何の才能も感じさせない 2011年部分が

 同じ監督の作品とは、にわかには信じられない気持ちが残るんですよ。

 冒頭だけじゃなく、劇中もう一度、1978年のシーンがあって、戦闘シーンなんですが

 これも見応えがあります。

 ラストは ↑↑↑ んなシーンで終わります。この後日談を凄腕の脚本家と、この映画の監督が

 組んで作品にすれば、ひょっとすると、いい作品ができるかも。

 ホラー映画が嫌いな私は見ませんけど。

(DIY) 蛍光灯を LED 化

台所の蛍光灯が時々点かなくなっていたので、ラピッドスタートの場合は、

蛍光管が古くなると、こうなるのかなと、とりあえず、蛍光管を新しい物に

取り替えてみることにしました。しかし、台所の蛍光灯ですから油汚れも

あるし、浴室に運びました。しかし、本体の置き方が悪くて、カバーの上に

倒れ、カバーにヒビが入ってしまいました。↓↓↓

しかし、単にヒビが入っただけじゃなくてカバーが劣化して脆くなっていました。

蛍光灯が点かない原因も、蛍光管の寿命だけではない可能性もあるし、この際、

台所の蛍光灯を LED 化することにしました。これには、付随する他の要件が

他にありました。

1)ガレージの蛍光灯の点きが遅くなっていて、一灯式二本の蛍光灯を

 二灯式二本の LED 管に交換することを考えていた。

2)台所は、蛍光管の交換だけを考えていたのだが、カバーを外そうとした拍子に

 本体が外れた。天井の石膏ボードに留めていたネジがボードアンカーごと

 スッポ抜けたため。

3)ガレージの蛍光灯用の予備蛍光管が1本だけ残っていた。これを使い切らないと

 もったいない。

4)ラピッドスタート用の蛍光管を次回の予備も含めて4本、買ってしまった。

 これも、使い切らないともったいない。

これらから、

A) ガレージは予備管が1本あるので、一灯式のうちひとつは、管を交換するだけで

 このまま使う。

B) もう一つは、台所のラピッドスタート二灯式に取り換える。

C) 台所の蛍光灯は LED 化する。

ことにしました。

最初に、↑↑↑ んなものを作って、

台所の作業場所周辺をざっくりと養生……って、この写真を見るとホントに

「ざっくり」でしたね。

最初に作った板は、↑↑↑ のように天井に貼りつけて、穴開けの位置決めをする

物差しでした。

ボードアンカーは、↑↑↑ を使ってみました。

自家製物差しを使って位置決めしたところに、7mm の穴を開けました。

ところが、実際に固定金具をあてがってみると当初の予定からズレが

発生してました。

電気コードを通す穴は、自分で開けるつもりで穴の位置決めしていたのを

既製の穴を使うことに方針変更をしたため起こったことではあるのですが、

ひっくり返して考えたとき、勘違いがあったかもしれません。

径の大きいワッシャーを2枚重ねて切り抜けました。うち1枚は波板用なので

湾曲しています。これが、バネワッシャー的な役割をしてくれるのではないかと

ちょっとだけ期待しています。

↑↑↑ 固定金具の取り付け完了しました。

点灯テストもOKです。カバーがないぶん、かなり明るくなった印象でした。

機嫌が悪い!

Followers (2020) の第一話を見て、華やかな世界の話も悪いわけじゃないし、

お!沢尻エリカが、出演してる!そう言えば、全裸監督にも、ピエール瀧が、

かなり重要な役で出演してたので、期待できる?って思ったら、第二話以降、

第五話までは、出番がなくて……っていうか、よくもまあ、長い時間をかけて

辛抱して、第五話まで見たもんだと自分をほめたいくらい忍耐強かったんです。

役者は揃っていて、それぞれの演技が悪いわけじゃない。映像も、さすがに

きれいで、リアリティもさすが。たぶん、脚本を寒竹ゆり、大浦 光太、蜷川実花の

三人がかりで書いちゃったっていうのが、失敗の元なんでしょうね。

小さいエピソードのいくつかは、決して悪くないのがゴロゴロしてるのに

それらが、芽を出す前にしおれたり、花が咲いても受粉しなかったり、

やっと結実したのに収穫前に落実したり、寄生虫が入ったり。

たぶん、第九話まで見ることは見るんでしょうけど、このまま行けば、

今日書いた以上に悪態を羅列した感想になりそうなので、全部見ないうちに

書いたほうがいいだろうという大人の配慮をしました。もし、三人がかりじゃなく

一人が脚本書けば、ここまでヒドイものにはならなかったんじゃないかと

思います。あるいは、ヘルタースケルターのように、原作があって、

それを三人がかりで肉付けしたのであれば、何とかなったかも知れない?

 

実は、昨日は、Followers (2020) の息抜きに途中で、もう一本映画を観ました。

風 (1998) です。園子温の監督・脚本作品とくると期待して見るじゃないですか。

のっけから、これは何か起こるゾ……起こらない。途中で、こう来ればきっと

何か起こるゾ……起こらない。最後に、いよいよ、これは何か起こるゾ……起こらない。

で、終わっちゃいました。なんじゃ?そりゃ。