葛籠尾崎の展望台を後にして菅浦集落に向かったのですが道を間違えて
大回りになってしまいました。途中で気づいたとしても一方通行なので
とにかく、麓まで降りるしかありませんでした。
最初に目に入ったのは茅葺きの立派な門でした。この門の話は、あとで出てきます。
門の近くには、須賀神社があり、↑↑↑ の建物は、その一部です。
ここにも立派な大木が。
須賀神社の鳥居。この集落にあった保良神社、小林神社、赤崎神社が合祀されて
須賀神社になったんだそうで四月三日の例祭には、それぞれの神社に由来する三基の
神輿が担がれます。この神輿の重さがハンパなくて初めて担いだ者は肩の皮が剥けて
しまって大変なことになるんだそうです。このあと、この集落にまつわるエピソードが
いろいろ出てきますが、その八割以上が集落で出会ったおばさんから聞きました。
ちょっと、わかりにくかった門にまつわる話は、あとで、もう一度須賀神社の前を
通ったときに近くにいた、おじさんに教えてもらいました。他にも90歳くらいの
おばあさんや恰幅のいいおじさんとか、いろんな方に「ちょっと、おたずねしますが……」の
問いに答えていただいた話を書いていきます。
立派な松ですねぇ。門と須賀神社の鳥居とこの松がある屋敷と琵琶湖とで、ちょっとした広場に
なっていて、その広場の中央に大木が立っています。しかし、この広場は昔にはありませんでした。
集落を進んで行くと
立派な屋敷がありましたが、これは、お寺です。
背の高い家です。養蚕を生業としていた時期もあるようです。
先ほどのお寺さんとは別のお寺さんですね。
近代の集落の戸数と
ちょっと古いんですが現代の世帯数なんですが、この戸数の集落にお寺が4っつもあるんですよ。
これまた別のお寺さん。浅井氏ゆかりのお寺かな。小谷城が落城した際、長政の
幼子が家臣と乳母に伴われて、この安相寺に逃れたという伝承があります。
須賀神社とは別に金比羅宮もあります。須賀神社が3つの神社が合祀されたものだから
神社も4っつあったってことですね。
この家は民家ですが、カッコいいと思いません?
↑↑↑ が集落の端っこです。この先、道はなくて岬の突先には舟でしか行くことが
できません。
この集落にまつわる話の8割を話してくれたおばさんとは、時間は計ってないですけど
最低でも30分は、いろんな話を教えてもらいました。神輿の話も昔あった船だまりの話も
浅井氏の支配を受けるまでは菅浦は村人の合議による自治が行われていた話も
全部、教えてもらいました。
山と湖に挟まれて耕作地が少なく食べるためと年貢を納めるため隣の大浦近くの
日差・諸河という地区の領有を主張しました。このため、大浦と菅浦は、150年とも
200年とも言われる期間、いざこざが絶えず、ついに戦争になって結局、菅浦が
勝利したのですが、その戦争の時に合力してくれた河道北南、西野、柳野、塩津、飯浦、
海津西浜各村には、足を向けて寝てはいけないと教えられてきたと言います。
さて、話は最初に出てきた茅葺きの門に戻ります。
柱の位置に対して、明らかに屋根の中心線はオフセットされています。そのバランスの
悪さを補うように大きな石が載せられています。この門がある場所は昔は広場では
なかったと書きましたが、集落に入る一本の道があっただけでした。この門は
関所の役割を果たしていたのです。村では自治が行われていましたから裁判も
自分たちで行います。罪人とされた村人は、この門の外に追放されます。
山賊や海賊が村を襲ってきたときには石を落として何人かで押せば、門は倒れて
バリケードになります。弓などで防戦をしたのでしょう。
そんな話を知って、あらためて見ると門が背負った歴史のようなものを感じます。
長話をしてくれたおばさんが、「他所から来た人には、なんで山際に家を建てるんだ?
土砂崩れの心配もあるだろうと言われるんだけど、平地は貴重だから田んぼや
畑にしなきゃならなかったんだよね。それに、杉や桧を植林した山ではなくて
ずっと、雑木林のままだから日が差込んで下生えが茂っていた。土砂崩れが
起きたことなんてないんだよ」といった話もしてくれました。
民家の庭先にプレハブの作業所なるものが、いくつかあって「機織り?」と
恰幅のいいおじさんに尋ねるとヤンマーディーゼルの下請け作業をやってるんだと
教えてくれました。 作業所の中に旋盤などを設置して部品などを作っているそうです。
国の重要文化的景観地区をただ歩いて眺めるだけでは、これらを学ぶことはできなくて
やはり、その土地に住む人の話を聞くことができれば、それに越したことはありません。