小説を先に読んで、その小説を原作とする映画を観ると、ほぼ、100% の確率で
がっかりします。その逆の場合は、あまり例がなくて果たしてどれほどの
確率で、やっぱ、しょせん映画は映画だなーと思ってしまうものなのかが
わかっていません。
「アズミ・ハルコは行方不明」の映画が面白かったので、山内マリコ 著の
原作を読んでみました。あれれ?
映画は、せいぜい2時間半程度の上映時間の枠に収めざるを得ないという制約から、
どうしても、省略が発生します。いくつかのエピソードが省略されたり
登場人物が何人か少なかったり、イタリアの巨大シンジケートの話を
メキシコの下層ギャング団の話にするなど舞台自体を小さくしたりします。
この小説でも、確かに映画では省かれている登場人物が一人だけいます。
樫木あずさという地方新聞社の記者ですが、特に生きづらさを抱えてるふうもなく、
駆け出しの男性記者であっても、なんら差し支えない登場人物で、アート
ディレクター津川ジローの部下である吉田という映画に登場しない人物同様、
省かれるべくして省かれた登場人物というべきだと思います。
つまり、主題には、ほぼ無関係。場合によっては登場することによって
(ほんの少しだけど)主題を弱めているとも言える登場人物です。
時系列の切り貼りで、スッとストーリーが入って来ないという特徴を
映画は持っていましたが、その点、小説では主要登場人物ごとに
きっちりと時系列に沿って書かれていて、ストーリーを追うのに
何の苦労も必要ありません。っていうか、ストーリーを追ってる
だけの小説?
小説を読んでみると、映画は、すごく原作に忠実に描かれていたことが
改めて感じられました。いや、むしろ、原作よりも映像に厚みが
あります。特に少女ギャング団の描写は、カッコいい!小説を読んだだけでは
こういうふうに脳内に描くのは到底無理と言い切れるほどで、ちょっと、
あこがれてしまうような存在なのです。小説の中では、男をSNSで
おびき出して集団で暴行を加えて金銭を強奪する薄汚いイメージによって、
スーパーのタイムセールのように半額シールを貼られちゃったかな。
小説に書かれていることは95%以上、映画の中で描かれていて
映画で描かれた肉食動物が集団で餌を狩るシーンと同じ迫力の
少女ギャング団の描写が小説では、トムソンガゼルの群れが
車の前を全速力で横切るだけのような描写なので、迫力というものが
決定的に欠如しているのです。
ん?この感じは、そう!これは、原作ではなく単に「アズミ・ハルコは
行方不明」という映画のノベライズでしかないのかという、がっかり感でした。
でもそれは、映画では描写されなかった女性としての生きづらさを
止揚するのかといったテーマに、小説では、どのように肉薄するのか
といった無い物ねだりが生んだ、がっかり感かも知れず、元々、
映画の中にも、それは存在しなかったということだったかも
知れません。