新聞受けの位置が高いのだ。でも、すぐにそれは新聞受けが
高いのではなく、私自身が低くなっているようだと気づいた。
玄関の引き戸も高さがある。周囲を見渡すと視点そのものが
低い位置なのだ。新聞を取り出そうとする自分の腕が、
やたらと細い。そういえば、パソコン部屋から玄関にいたる
途中でも視界に違和感があったのだが、あまりにも異様な状況に
おかれていたので何もかも異常なので視界が低い位置から
広がっていることの特殊性が全体の特異な状況の中に埋もれて
しまっていたのかもしれない。
手に取った新聞の日付は昭和37年8月5日だった。
パソコン部屋にいた2024年9月22日から62年あまり
遡っていたのだ。むろん、新聞の日付を見た瞬間に、これらの
ことを把握したわけではない。周囲の明るさも午前4時前の
ものではなくて日の出も過ぎてるし午前6時前後だと思えた。
そういえば、パソコン部屋から出た後の家の中の状況も
初めての景色ではなく間取りを把握した動線で裏口に出て
玄関の新聞受けに至る経路も難なくたどることができた。
それも、昭和53年に建て替える前の「わが家」だったからだ。
古い家の記憶は、いつのものか分からないけど建て替え前の
古びた状態に近いもののだと思える。だから、それよりも
16年前の「わが家」を見ても、それだけ新しいものを
見たため、瞬時に「わが家」とは特定できないまま記憶の
底の中の家屋内を移動している気分だったのではないだろうか。
このあたりの感覚は、「今」では、すでに古い記憶となっていて
あいまいだ。この日のタイムスリップ以降も、たびたび
「現在」とパソコン部屋とを行き来することになるのだが
パソコン部屋に戻ると、いつも時刻は2024年9月22日の
午前1時13分。そして「現在」に戻った時の時刻はパソコン部屋に
入室した時刻。パソコン部屋に何時間滞在しようが入室時刻に
部屋を出ることになる。
それと昭和の「現在」に住む家族にはパソコン部屋のドアが見えなくて
当時の部屋の引き戸しか思っていないということが、そんなに
日を待たずにわかった。パソコン部屋は当時両親の寝室だったのだが
親が部屋を出入りするときには私にはドアに見える入り口を
引き戸として横にスライドさせる。だから、その後もパソコン部屋に
出入りするときに周囲に家族がいないことさえ確かめておけば
部屋から出たときも鉢合わせする心配はなかった。あやまって
家族がパソコン部屋に入ることもなく私が両親が寝室にいるときに
寝室に入って、あまり見たくない夫婦の姿を目撃する心配も
なかったわけだ。
他にも、いろいろ不思議なことがあった。パソコン部屋に入る前の
私は小学校4年生の少年だ。しかし、部屋の中では、ちゃんと
72歳の老人だ。