Dogtooth(籠の中の乙女=邦題) (2009)

投稿者: | 2020年12月31日

始まって5分と経たずに、これは、やっかいな映画だぞと身構えて

しまいました。そのまま、緊張した状態で観ていると、あの姉妹の

ダンスシーンに至り、身が凍ったのですが、もし、この映画を劇場で

観ていたら、周囲の観客のかなりの割合を占める人たちが笑い出して

しまって、私は抱えてしまった恐怖心を持て余したことでしょう。

こういう難解な映画について語るとき、戒むべきは、ちりとてちんを

語る竹にならないことでしょうね。鑑賞後、最初に連想したのは

北朝鮮の体制であり、もし、裕福な全体主義国家が存在し、しかも、

その理念が独善的ではあっても国民の安全なり幸福にあったなら……

さすがに、その設定は無理がありますね。北九州監禁殺人事件や

尼崎事件のような支配洗脳事件も動機は欲であり、最初は手段であった

支配力が目的化し、やがて自らを全能の神と勘違いさせるまでに

肥大化して破綻するという経過をたどります。これらも、この映画が

描く支配とは異質なものです。少なくとも方向性が違います。

この映画の支配者である父親は、ほころびを繕うために架空の誰かに

襲われたフリをしたり、プールに魚を放したり(実は、魚の件に

ついては、ハッキリとは理解できてません。私の英語力では無理)

涙ぐましい努力をしています。一方で工場の守衛の女や娘を叱責する

手段としての暴力の行使に躊躇はありません。

だから、直感的に北朝鮮体制を思い浮かべてしまったのは失敗で、

親が思い違いをして何らかの失敗をしたのに、その失敗の本当の

意味に気づくことができなかったため、その子供や孫にまで悪影響を

及ぼしてしまうという、日本全国、どこにでもあるような家庭で

起こっているような支配。ありふれているけれど、そのぶん、

解決が困難で深刻な支配。それは、学校や職場、地域社会に

存在するイジメなどと同根のもので、実は社会を構成する要素であって

万一、支配というものがなくなったら社会という仕組み自体が

崩壊するし、元々、人が二人いれば社会の最小単位となるなら

人類が存続できないということなのでしょう。
 

この監督の別作品も観たいかというと、ごめんこうむりたいと

今は正直、思ってます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

日本語を使って書いてね。外国語わかんない。