宿根木

By | 2024年6月3日

不思議な集落です。

一方は海に向かって開けているものの残り三方は崖に囲まれた狭い谷地に

ギュッと詰め込まれたように約110棟の民家が密集しています。

宿根木は中世の頃より廻船業を営む者が居住して、宿根木浦は佐渡の富の三分の一を

集めたと言われるほど栄えていました。

宿根木浦から4kmほどの距離の小木に江戸幕府よって港が整備されて商業の

中心が小木港に移ってしまったあとも船主を先頭に船乗りとともに商いを続けました。

船主が船に乗らない場合は船頭が積荷の一割程度自分の自分の商品を積み込む

ことが許されたので商売をして稼いでいたのです。その代わり、船頭の給料は

安く抑えられていました。船乗り達は、船主から売上高の5~10%の分配を

受けていたので実入りが良くなると同時に船主の荷を大切に扱うし、船頭が

自分の荷物ばかり優先させないように見張る役割も果たしたというのです。

なかなかの社員管理術ですね。

船頭は己の才覚で一航海で百両を超える利益を得ることも可能だったと言われて

いますが、その利益を生む力は情報力でした。当時の通信手段といえば、手紙

くらいしかなくて同じ商品でも地域によって価格差がありました。その価格差を

利用して積荷をより高く売り、各地の特産品を一番安い港で仕入れて高利益を

産み出していったのです。

狭い土地を高度に利用するため、ほぼ、すべての建物が総二階建となっています。

宿根木の蔵は他の民家と同様に板壁のように見えます、しかし、板壁は塩に弱い

漆喰を守るためで板壁の中は漆喰壁なのです。宿根木では、板壁の家ばかり

目立ちますが、壁板は千石船を修理したときに出る廃材を利用したものです。

厚さが36mmくらいあるとのことです。小木港に商売の中心が移ったあとも

宿根木には船大工や船員などが多く住んでいて千石船の修理などを行って

いたと言います。修理の際に出た廃材を上手に利用していたのですね。

江戸時代に石見瓦が、昭和30年代に能登瓦が廻船で運ばれて瓦屋根が増えて

いったのですが、 現在、主屋や納屋の屋根約40棟が石置木羽葺屋根に

復原されて特徴的な景観を形成しています。赤い色の瓦屋根は、きっと蔵だと

思います。

港のほうを見ると白い柱が、いくつも立っています。これらは舟を係留するための

舟つなぎ石です。御影石でできています。積荷は大阪でほとんど下ろしてしまうので

空荷になった千石船が不安定になってしまうので瀬戸内海各地で御影石を買い込んで

ウェートとしたために石材が豊富になり、この舟つなぎ石や、集落内の川を渡る石橋などに

使われました。街並み案内所の駐車場のタイヤ止めも御影石でした。

明治も後半になり蒸気船や鉄道が現れて輸送手段としての千石船は役目を終え、

電信の普及によって各地の価格差も小さくなって商売のうまみも小さくなって

宿根木の廻船は次第に姿を消していきました。 船大工は仕事を求めて集落を離れて

いって船乗り達も海を捨てて宿根木は、すっかり出稼ぎの村となってしまいました。

以上のような話の多くを街並み案内所のおじさんに聞いて、なぜ、こんな100m四方

ほどの狭い土地に、ひしめきあうほどの家が集中したのかといった謎や御影石が

ぜいたくに使われている謎を解き明かしてもらえたのでした。

河村瑞賢が、1672年(寛文12年)に開設した北前船の西廻り航路が宿根木を

繁栄させていき、それまで使われていた酒田港から敦賀を経て琵琶湖を船で縦断し

陸路で桑名まで運んで再び船に乗せて江戸に運ぶという積荷を何度も積み替える

非効率で時間も1年3ヵ月もかかったものを3,200kmの長旅ながら西廻り航路に

よって2ヶ月で江戸に運ぶことができるようにしたことで小木の港が栄え、港を

出入りする千石船の補修などを行う船大工の里として、また、自ら廻船を所有して

海運業で稼いで繁栄した宿根木も現在は空き家だらけで残る人々も高齢者ばかり。

町並みを維持するにも人手も資金も不足してきています。大勢の人が訪れて町並み

保全協力費の100円を払ってくれるといいですね。

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